講座・研修

【レポート】いわてグローカル・カレッジ 第7回「海外へ進出した県内企業の戦略と展望」

主催:(公財)岩手県国際交流協会

2011年12月02日(金)

■概要

 □ タイトル: いわてグローカルカレッジ
  第7回「海外へ進出した県内企業の戦略と展望」
 □ 日時: 2011年12月4日(日)14:00~16:00
 □ 場所: アイーナ4階 アイーナスタジオ
 □ 講師: 阿部 明 氏(岩手阿部製粉株式会社 代表取締役社長)


■レポート

岩手阿部製粉株式会社 阿部明代表取締役社長に「海外へ進出した県内企業の戦略と展望」と題して講義をしていただきました。
講義の要旨は次のとおりです。



創業時

 昭和29年に製粉業を始める前、祖父の時代は製材業を営んでいた。戦前大変隆盛を極めて、若い祖父は当時家が1、2軒買えるほどの価格のハーレーダビットソンを買って現場から現場を渡り歩く青年実業家であった。
 戦争が激しくなってくると国策として企業統合され、製材業は衰退した。昭和20年に戦争が終わり、日本国中が疲弊するなか祖父の製材業も倒産寸前となった。その当時、豆腐1丁買うお金さえなかった。昭和20年当時、創業者である私の父は旧制中学校2年生のとき、南米のペルーで活躍している先輩の講演を聞き海外への憧れを抱いた。講演をした先輩の泊っている下宿を訪ね、南米に連れて行って欲しいと頼んだところ大学を卒業してから訪ねてきなさいといさめられた。勉学を続けるうちに体を壊し、地元の岩手大学の農学部に進むことになった。理科教師の免許を取り卒業、地元の紫波中学校で3年ほど英語教師をした。教師を辞めた後も家業の製材業を継がず、製材の職人にもち団子を食べさせるための粉を挽いていた。昭和27、28年は全国的にコメが不足していたので、上新粉を埼玉県の草加に持っていき売ったところ、素人が挽いた粉でも原料不足のため飛ぶように売れた。昭和30年代なかごろまで儲かっていたが、農業の基盤が整ってきてお米の生産量が増え、原料事情が良くなってきたころ、業者から品質を指摘された。そこで、昭和41年に御煎餅の実験工場を作り、煎餅の試作を繰り返し、原材料の改良を進めた。開発と共に、地元の百貨店でもソフト煎餅の販売をした。昭和43年に原料が改善され、草加せんべいができるようになったので、仙台の百貨店で営業をしたところ、「東京のデパートで売れたら買う」と言われ、その言葉を受けて東京の百貨店に行き交渉したところ「外国で売れたら買う」と言われたので意地になりハワイに行った。これが、海外での取り組みの最初となった。


初の海外

 ハワイで日系人が経営しているスーパーを訪ねたところ、「ハワイのマーケットは小さいのでアメリカ本土で売った方がよい」と言われ、ロサンゼルスで当時一番大手だったセーフウエイと交渉をした。当時、米国では肥満が社会問題化しており、油で揚げていない焼いたタイプのコメの煎餅がヘルシーだと評価されたが、食べたときに口どけが良いものにしたら考えるといわれた。帰国し、試作品のチーズ味、テリヤキ味、ゴマ味と3つ作り再度米国で交渉したところ、カナッペの材料として高い評価を受けた。「どれだけ供給できるか」という問いに、セーフウエイが全米に何百店舗もあることが頭になく、注文をもらえる喜びで「いくらでもできる」と答えた。とりあえずコンテナ10本という注文を受けたが、コンテナ2本分の生産能力しか当時なかったことから、朝から晩まで働き続けた。最初の1台目のコンテナは紫波町の日詰駅で東北初の海上コンテナを持ってきた企業とニュースになった。なんとかコンテナ10本分の製品をつくり、船で出荷したが、1か月後に、“製品にチーズダニが入っているので、持ち帰るか米国の指定の焼却炉で焼却するように”との命令の手紙が届いた。コンテナ1本分を焼却するには当時の金額で250万円、現在の金額だと凡そ2,500万円となる。10本焼却すると今のお金で2億5,000万円となり会社が倒産してしまう。何か方法がないか、JETROに相談したところニューヨークは検査が厳しいので、ボルティモアへの着地変更のアドバイスをもらった。全てのコンテナが関税をパスするまで約1か月間かかったが、煎餅をアメリカで売り始めることができるようになった。1ドル360円時代であったので、商品は飛ぶように売れ次々に注文が入ったが、10本分の生産は無理なので2本まで発注を落としてもらい、その後安定してセーフウエイに提供できた。


トラブルを乗り越えて

 御煎餅の販売を続けるとともに、粉の品質も向上していたので国内でも販売をしていた。ある大手の食品メーカーに売り上げの8割ほどを出荷しており、その大手メーカーが2,000人規模のブドウ状球菌の食中毒をおこしてしまった。そのときに「共通の原料は岩手阿部製粉からである」と新聞に投書があり、それを新聞記者が何も疑わずに掲載した。当社の粉がシェアをどんどん増やしたために、他社の出荷量が減ってしまったので恨みを買ってしまったためである。食品メーカーも食中毒の原因は岩手阿部製粉であると発表をし、私の父親が食品メーカーの社長室で監禁されて「今回の全ての責任は当社にある」と認めるように迫られたが、なんとかその場は逃れた。そこで、厚生省へ出向き、乾燥した粉から食中毒になるとは思えないので全て検査してほしいと相談したが、民間のことは民間でと相手にされなかった。医学部出身の叔父から厚生省に話をしてもらい、工場全体からサンプル検査をしたところ全て「白」だった。その後、食品メーカーが訪ねてきて再度取引をという話があったが断った。売り上げの8割を断ったため、原料米の在庫だけ抱えることとなった。夏の暑い夜に、倉庫で米虫が動く音が聞こえたことはよく覚えている。
 そのとき、父も母もあきらめずにお米で何か商売をしなければと考え、朝ナマ団子を作ることを始めた。昭和50年にはお団子は大衆の食べ物であり、お金を出して食べるものではなく、自分で作るものであった。しかし、地元百貨店に場所を借り販売をしたところ1日に30万円、40万円と売れた。食品の食中毒事件の時に相談に乗ってくれた商社の方からチェーン展開の話しをもらい、8,000俵倉庫にあった米が1年間でなくなった。北海道から姫路まで約29か所の工場チェーンができ、お団子を売った。我々中小企業は大手ができないことをやってこそ価値があると考え、朝作ったら夕方捨てるようなお団子を作ろう、と考え販売したら成功した。早稲田大学の学生が書いた北上京遷都論という論文をヒントに、北上京団子と命名した。なにか相応しいキャッチフレーズはないかと父が考えていたとき、「今日作って今日売る、京だんごではどうか」と小学校4年生の私が話したところ“いい名前だ”ということで「京団子」のキャッチフレーズで販売した。


冷凍和菓子

 順調に商売を進めていたが、姫路から以南に販路が進まないので思案していた時に岩手県が海外催事を開くという情報を聞いた。香港で岩手県の物産展をやるとのことであった。香港で売れた、ということになれば中国地方や四国、九州へも進出できるのではないかと考え、粉と職人や機械を持って香港で販売をした。お団子は上にタレがかかっていたため、きれいに見えなかったようで、あまり香港では売れなかった。特にあんこ団子などはグロテスクな感じに取られたようである。たまたま催事を手伝ってくれた香港の女性の店員さんが、「大福みたいに中に包んだらいいのでは」とアイディアを出してくれたので、見よう見まねで初めて香港大丸で大福を作った。すると1日に6,000個から8,000個と飛ぶように売れた。これに気を良くした父は、香港に工場を作ろうと考え、香港に再渡航して工場の場所を探した。香港は狭いので地代が高いことに加え、イギリス領であったために複雑な契約であったので断念して帰国した。しかし、どうしても反響が忘れられなかったため、何とかして売る方法がないものか考えた。そのとき「氷は腐らないから大福を冷凍しては」との発想が現在の冷凍和菓子の始まりだ。当時だれも着手していないことなので変人扱いをされた。冷凍設備がなかったので、岩手県漁連にマグロが入っている冷凍庫を貸してくれないか漁連の理事長さんに相談したところ、快諾していただき冷凍庫を借りて冷凍の実験が始まった。大福を作っては冷凍庫に持って行き凍らせることを繰り返していた。マグロが入っている超冷凍庫は開閉に気を付けないとマグロがすぐダメになので注意するようにと言われていたが、あるとき戸を開けたまま冷凍大福の試験をしてしまった。その次の日に漁連の理事長から、冷凍庫に入っていた何千万円もするマグロが駄目になったと電話があったので急いで謝りに行ったところ、出入り禁止になってしまったが、弁償せずに済んだ。漁連の理事長さんから、「何かをやろうとしたときに、人の力に頼ってはダメだ。覚悟をして取り組まないのであれば、誰も作ったことのない冷凍大福などできるわけがない」と言われた。そこで父は覚悟を決め、マイナス25度とマイナス35度の30坪と20坪の工場を作った。実験を繰り返し、約1年後に成功した。成功した1番のポイントは、製粉メーカーの強みを生かし、ある製粉の仕方により冷凍適性の強い粉を作れたことにある。この粉で大福を作り、香港に輸出を始めることができるようになった。
 しかし、輸出すると香港から「固くなっている」、「食べようと思って解凍したら全然柔らかくならない」とクレームばかりが来た。何度送っても全部固くなってしまう。そこで、原因を確認するために香港へ行った。現地では、30度ぐらいの気温の中、冷凍庫のスイッチを切ってコンテナからトラックに積んでいた。香港は暑いところなので、大福が溶けていく。さらに、冷凍庫では溶けた大福を隙間なく収めていたため、完全に凍りきれないまま大福が老化してしまう状態になっていた。何か方法がないものか考え、井桁状に隙間をあけて冷気が通るように積んでほしいと話したところ、その分の倉庫の経費を求められた。不本意であったが、香港で冷凍和菓子を定着させるために致し方ないと考え負担した。そのお陰で、香港で大福のブームが起こるほどに売れた。その後、米国でも販売をしたところ日系人やアジア人を中心に売れた。最初の販路を大切にして他の店から話しがあっても断っていたところ、マネをするメーカーが現れた。現地で作ったものや日本の貿易会社が国内のメーカーに作らせた安い粗悪品が出回った。そのため、出荷量が落ち始め販売がゼロの状態になった。確認すると粗悪品と現地生産品が市場に並んでいた。まずいモノが並んでいると、全てまずいモノとみなされ香港で売れなくなった。


日本での販売

 日本では冷凍の大福はなく、また、そのようなジャンルもなかったので販売する法令上の根拠がなかった。製造年月日を付けての販売では、解凍したときに半年、1年前の製造年月日になってしまうことがある。そうすると、大福は1日、2日で腐ってしまう印象があるので想像しただけで腹痛を起こしてしまう。そこで、冷凍している期間は熟成期間として解凍したときに製造年月日を付けさせてもらえないかと交渉したが、許可されなかった。そのため、国内で販売できないので海外でばかり販売していた。唯一、日本で買ってくれたのが鹿児島県の百貨店であった。販売できない理由を伝えたところ、「鹿児島は薩摩の国で日本ではないので、責任を持って売る」といってくださり鹿児島のデパートでだけ販売した。
 そのうち、米国の新聞に日本から冷凍の大福を持ってきて販売しているメーカーがある、という記事が載った。この記事を厚生省が目にして、逆にどのようにして日本で売ったら良いか相談をされた。製造年月日の他に、「解凍発売日」を付けさせて欲しいと提案し、海外から遅れること約3年で日本でも販売を始めた。


海外での販売拡大

 昭和55、56年ごろは1ドル230円~240円ぐらいあったので、凄く順調に冷凍の大福が売れていた。ところが1985年のプラザ合意により、約1年間で1ドルが150円ぐらいまでの円高となり、それに伴い出荷量が減った。何か改善策がないか考え、もち米の特性を持ったうるち米の粉を開発し、その粉での商品で危機を回避した。当時は日本の食品を海外へ輸出しようとする企業は多くない時代であった。国内を中心に販売をしながら、海外にも商品を出していたが、なんとかもう一度海外で大福をしっかり売りたいと考えていた。海外に行った際には様々な問屋さんと話をしたり、イベントをするなどして少しずつ売っていた。
 平成元年ごろ、もう一度香港に商品を定着させて売りたいと考え、様々な貿易商社の方や現地の方に話を持って行ったが、「円高の時代に日本の物を持ってきて誰が買うのか」と言われた。しかし、美味しいモノは必ず売れるハズと説得し、販売をした。しかし、香港では美味しくない大福のイメージができてしまい思ったように売れなかった。それでもあきらめずに、イベントを繰り返し、研究を重ねて平成10年に香港にお店を出すことになった。その時期に、以前に香港へ粗悪品をばら撒いた営業マンとかち合い、口論になった。そのことを切っ掛けにして、香港では失敗ができないと覚悟を決めた。高級スーパーのシティスーパーの2店舗に店を作り、販売することにした。交渉の過程で、どら焼きを作ってほしいと話があったので、香港人にでも買いやすい安い商品の提案をした。すると、バイヤーから「香港人を嘗めてはいけない。香港人がうまいと感じるものは世界中どこでも売れる。最高の原料を集めて最高の物を作ってもってこい」としかられた。日本に戻り、最高の原料で最高の品を作り1個250円で販売したところ、思った以上に売れた。パッケージに中国語を用いようとしたところ、日本語で良いと言われた。ひらがなが入っている商品には高級感、安心感があるとのことである。
 香港の成功を受けて、ロサンゼルスの日系人のフェスティバルでもテリヤキソースの団子を作ってPRをした。現地の焼き鳥屋のチェーンにも受け入れてもらった。


海外で販売するということ

 岩手県は海外での催事やアンテナショップなど他県と比べて積極的な県である。冷凍の和菓子を始めたのも岩手県が行ったイベントが切っ掛けだ。最近は、ヨーロッパでも和菓子が売れ始めた。ドイツ、イタリア、フランスで製品が売れ始めた。15年ぐらい前だがフランスで当社のお団子を売っている場所に行ったとき、5本入りの三色団子をフランスでは2,500円ぐらいで売っていたが売れていた。当時、日本では480円で売っていた。日本では4個で400円ぐらいの大福はフランスでは1,500円ぐらいで売っていた。アジア系とフランス系の人が半々ぐらいの割合で買っていく。日本の食品を扱っているスーパーに来るフランス人なので、日本のお菓子も興味があり、好きになってくれると聞いた。品質や商品がしっかりしていれば価格の問題ではないと感じた。

 現在は18か国ぐらいに商品が流れている。今、円高がすすみ厳しい。円が360円時代から商売が売り始まり、200円半ばぐらいから170円のころ、130円、そして今1ドル77円台で非常に厳しいが、商品の輸出量は落ちていない。円高は進んでいるが輸出量は横ばいなので、ある貿易会社の方に、「円高でもよく注文がきますね?」と聞いたところ、「『芽吹き屋』ブランドの大福については“大福が欲しい”という注文ではなく『芽吹き屋』というブランドを指定して注文が来る」といわれた。

 大震災の際には、3月11日から約1か月半ぐらい注文が来なかった。原発の問題が影響したようだ。国内も国外も売れなくなりつぶれることも覚悟した。現在はヨーロッパを中心に注文が復活している。

 当社の商品づくりの前提として、偽物の原料は絶対に使わないこと、なるべく国内産の原料にこだわること、徹底して衛生管理をすることが当社の基本的なモノづくりの考えである。
 冷凍和菓子を作り始めてから、衛生管理については強くこだわった。というのも、御煎餅の輸出のときのチーズダニの混入、大手食品メーカのときのブドウ状球菌の話など、痛い目にあっているので、冷凍の大福を作るということに当たっては疑われるようなことを当工場内で起こしてはならないと考えて、衛生の仕組みづくりに取り組んだ。当時、衛生に真剣に取り組んでいるメーカーはあまりなかった。クレームがもし起こった時には菓子折りを持って行って頭を下げた方が安い、という考えが多かった。当社では衛生管理を徹底し、工場内に入るときは手を何十回も洗ってから入る様にした。結婚指輪をしている人は外すように頼んだ。様々なルールを作り、衛生にこだわった。トイレに入るたびに何十回も手洗いするので大変であったが、厳しく行っているとそのうち菌の数字が落ち着いてきて、菌が増えないようになる。ところが、無理な衛生管理をしていると逆に数字が悪くなる。そこで、工場の中に入るときにたくさんの扉を付けて、扉を通るたびにアルコールで手を消毒するようにするなど、社員の負担にならないような環境を作る様に心がけた。様々なシステムを作って、安定して菌のコントロールができるようになった。
 冷凍の大福は冷凍の空揚げや冷凍のチャーハンなどと違って再加熱する工程がないので、工場内で出来上がったときに最もきれいな状態でなければならない。当社の大福の工場は製薬会社と同じ、もしくは半導体を作る工場のような無菌室を工場内に作って大福をつくるようにした。そのお陰で、冷凍の大福を作って40年ほどになるが、食中毒事件を一度も起こしたことがない。外国に輸出するにあたっても、当時は細菌検査については日本より外国の方が厳しかったが、色々な検査でも当社の製品は一度も引っかかったことがないので信用をされている。イギリスのブリティッシュ・エアウエーでは、日本のお菓子が機内食になったことがなかったが、当社がその航空会社の機内食に初めて採用された。一番の理由は、しっかりした衛生管理がなされているということであった。 衛生管理がなされていて、一度も事故を起こしたことがないメーカーだということで優先的に当社の商品は放射能検査をしてもらい、放射性物質が出ないことがハッキリして、ドイツを皮切りにイタリアや、アジアへも商品が流れるようになった。ドイツとイタリアは積極的に当社の商品を買ってくれる。海外への輸出も震災後9か月たって、元に戻りつつある。


 昭和40年ごろに起業して現在に至るまで、国内海外の販売比率は変わってきたが、一定の量を海外へ向けて商品を出している。海外へモノを売ろうと思ったら、覚悟をしなければならない。会社の景気に左右された海外展開や、海外で安いモノを作って売ろうと安易に考えるとモノは売れない。行政の企画や補助、手当てなど人に頼る姿勢だと海外ではモノは売れない。県内の業者と海外の催事で一緒になるが、観光目的で参加している会社がある。また、県にお願いするばかりの会社がある。そのような会社の商品は海外では売れていと思う。最後の最後は自分たちの力で商品を並べて売らなければならない。海外に行ったときも、問屋やバイヤーと一緒に話を聞いてくれる客がいないか歩く。人に頼らないやり方をしていくと、なんとか海外でも活動できると思う。そして、一番大事なのは、徹底的な衛生管理が大切だと考える。海外は裁判の国なので、ちょっとしたことで大きな賠償をもとめられかねない。貿易に関する食中毒などの保険にも入っている。

 日本の商品を出すときには、徹底的に原料にこだわるべきとも思う。当社は岩手県の原料にこだわっている。岩手県で手当てできないものは、国産にこだわる。国産ではムリなモノについては、安全を確認して外国産を入れる。なるべく添加物等を使わず、本来ある日本の伝統的な食品の作り方にならって、伝統からぶれないような製品作りを心がけている。そこから始めているので、海外でも「日本の大福」、「日本のお菓子」といえると思う。中小企業の小さなお菓子屋が海外で物を売ろうと思ったら、守らなければならない伝統や守らなければならない原料、守らなければならない製法、そして徹底した衛生管理が必要ではないかと考える。


国産、岩手産への思い

 なぜ国産の原料にこだわるのか。なぜ岩手産の原料にこだわるのかは、岩手県で物を作っていると、どうしても農業との結びつきが強いと思う。我々が国産にこだわるのは、原料がいいということもあるが日本の農業を活性化させたい、日本の緑地を守りたいという意味で国産の原料にこだわっている。海外に売ることにより日本の農業の活性につながるのではという思いもあり国産原料にこだわっている。震災を受けて大変な時期であるが、国でも検査してくれるし、各団体でも検査してくれる、当社独自でも放射能に関するチェックをしている。当社は日本国内で農業がある限り、徹底して国産品を使っていきたいと考えているし、近い将来、もっと農業にこだわったお菓子作りができれば良いと考えている。


■報告日:2011年12月20日